1997年に旅行会社のミスにより、海外旅行が急遽キャンセル。
代替地として初の沖縄旅行に。最初は平凡にひめゆりの塔など沖縄戦の傷跡や国際通り、ステーキなどを楽しむ程度で終わり。通常の国内旅行かと思われた。
しかし、旅行中に妻が見た雑誌に竹富島の水牛車が。これが沖縄にどっぷり浸かるきっかけとなる。
翌年に石垣島を訪れ、竹富島、西表島を巡り、八重山の文化、沖縄の文化に衝撃を受ける。同じ国とは思えないほどの自然、食材、そして人の心。
基本シャイな気質の沖縄県民だが、泡盛が入ると、とたんに豹変。
心底人の良さを前面に出す沖縄、いや琉球人気質の虜となった。
まだ、その時には琉球音楽など、まったく意識していなかったが、妻が記念程度に買った安い三線がきっかけとなり、沖縄民謡の世界に入り込む事となる。

沖縄ときいてイメージできるのは、Boomの島唄、ハイサイおじさんより志村けんの「へんなおじさん」程度の私がどのようにのめり込んだのか。
沖縄民謡を学ぶきっかけを作ったのも、やはり妻だった。
当時、妻の会社に居た沖縄出身のオバァに、「旦那が沖縄民謡をやろうとしているが学ぶところがない」などと話をしたところ、数日後にチラシの切れ端を見せてくれた。そこには「沖縄民謡生徒募集」的な案内が。
内容も大して知らぬまま、連絡を取り教室へ。

そこで出会ったのが、琉球民謡登川流 関東支部 教師 宮城富士男先生。
最初の稽古時に、しきりに登川誠仁先生の話をしてくれたが、全く沖縄音楽の知識がない私は「はぁ」としか返せなかった。
この時、最初に練習したのが登川誠仁先生の「島の花」。
沖縄音楽の楽譜である工工四を渡されて、読み方も分からず、曲も分からず、まして言葉も分からないこの曲をどう練習するのか。
三線の弾き方も知らない私は、1週間ひたすら調べ、「島の花」が入っている登川誠仁先生のCDをようやくゲット。
ここでようやく、登川流宗家登川誠仁という沖縄民謡の大家を知り、登川流という大組織を知り、そこの関東支部平塚教室に籍を置いた事を知ることになる。
もし、妻からチラシの切れ端を受け取らなかったら、私自身が調べた沖縄音楽の教室に行っていたかもしれない。そこは沖縄古典音楽の野村流の教室。(それはそれで面白かったかも)また、カルチャー教室で、沖縄POPSの世界に入っていたかもしれない。
そして、1998年8月頃から登川流関東平塚支部の一員として、沖縄民謡を学び始めたのである。

登川流の活動範囲は非常に広く、組織イベントも盛んであった。
特にあの頃は、沖縄ブームで関東支部の構成員数は今の何倍もの数であった。(正確な数値は分からない) 組織イベントは、新年会に始まり、花見、忘年会といった宴会が年に何度も開かれ、このイベントには必ず全員が三線などの楽器を持ちより、日頃の成果を披露する。
お酒、食事、唄三線はどんな時でもセットなのである。
また、横浜マラソンや港でのイベント、ハイサイフェスタなどのメジャーイベントでの舞台で演奏したり、本当の(?)伝統芸能の舞台に出たり、沖縄の本部が主催する舞台に関東支部として遠征するなど、年中行事の数は月の数より多い年もあるほどだ。

習い始めの頃には、忘年会の舞台で華麗に唄い、演奏する先輩に憧れ、いつかはあの舞台でと夢を抱いたものである。
その様な、目指す先輩たちのおかげで、登川流の大イベントである、3年に一度のコンクールでは、新人賞、優秀賞、最高賞と順調に腕を上げ、とうとう2017年に登川流教師の免状を得るに至った。

20年以上、登川流で沖縄民謡を学びながら年に数回沖縄を訪れ、沖縄料理の素晴らしさ、泡盛の美味しさ、人のやさしさ、自然の美しさなども、沖縄民謡と同じくらい知ることになった。これら沖縄文化全体の素晴らしさを音楽を通して、本土の人達や国の違う方々にも伝えられればと思い、この教室を開くに至ったものである。